時事談話 助川通泰(宇都宮二荒山神社宮司)

大鳥居

宇都宮二荒山神社宮司 助川通泰

旭野:次は”神社のご紹介”ということで、特ダネを出していただいて。(笑)
助川:なるほど。(笑)
氏神様として信仰を受けていますので、氏子様や崇敬者はもちろんですが、最近色々な神社からの参拝が非常に増えてきました。例えば、我々の神社で言う一番由緒の深い御本山的な。御祭神と縁故の深い奈良県の大神(おおみわ)神社。一般には三輪(みわ)神社と言いますが。そのお社で本社の御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、山の頂で夢を見てその見た夢によって東へ勅命を受けて御越しになった神様なんです。そういう非常に縁の深い大神神社から、今3班に分けて神社参拝に来られるとか。
それから埼玉県の大宮市にある武蔵一之宮の大宮神社からも3班に分けてこの間参拝団が来ていました。今日も栃木県の式内社(しきないしゃ)である村檜(むらひ)神社の宮司さん以下役員さんがお参りになる。最近そういう団体が非常に多くて。この間は1日に3組だなんて(笑)。最近までない現象なんですけれどね。そんなことが最近多く、有難いことです。
それからご存知の通り、再開発の関係で少し社頭が綺麗になるので。思い切って終戦直後の仮の鳥居だったものを綺麗にしようと。皆さんの協力を戴いて、明治以前まで使っていた両部(りょうぶ)鳥居の復元を。しかも全て地物で無垢の欅材でより太い立派な両部鳥居を作ることが出来た。最近としては大変大きな神社の歴史に残る事業であったかもしれませんね。
旭野:たしかにあちらこちら回って鳥居が気になるんで見ますけれども、全然段違いですね。
助川:その点は大事業でしたがだいぶお褒め戴いて居ります。ありがたいですよね。
旭野:この大きな鳥居も、私が夢見たようなかんじだったんですよ。
助川:本当に。最初からご熱心にご理解戴いて。協力も戴いて。
旭野:こういうのがほしいって。願望はございましたよね、宮司さんの。
助川:えぇ、以前からもって居った夢をね実現することができました。
旭野:ひょこっと私が銘木屋に電話しただけなんです。まさかあるとは思わなかった。「二荒山で鳥居って話が出たんだ。どうだい? 県内だよ」っと。そしたらやっぱり(銘木屋は)全部あるのを知ってるんですね、大きい木。
助川:もうだいたいリストはあったんでしょうね。
旭野:間髪いれず(銘木屋が)「ありますよ」と言うので、こちらはビックリしちゃって。
助川:しかも80cmだったのが90cmの物まで見つけることが出来て。その物を使うことが出来たという事は、絶対に簡単に出来ることじゃなかったしね。
旭野:お話を受けた方(欅の持ち主)が、みんな快く「良いですよ」と言って、切れたらしいですよ。
助川:えぇ。
旭野:二荒山神社という言葉だけで、OKだったらしいです。
助川:そういう事らしいですね。その辺がね。
旭野:いかに二荒山神社というのがありがたいか、ですよね。
助川:今までは「先祖からの木だから切りたくなかったんだよ」とおっしゃる木も、二荒山の鳥居に使う。「あぁ、いつもあの姿で見る二荒山の表玄関を飾る鳥居に使って戴けるんだ」と言うことで、皆さん協力戴けたんだと思います。
旭野:(銘木屋の)大林君が感心しているんですよ。二荒山神社と一言言えば、なんとかなると。県外の大きな神社とかあちらこちらから話が来ているけれども、それは言っても駄目なんですって。地元の。(笑)
助川:そこですよ、きっとね。(笑)歴史の重さと言うか。それはありがたいものです。

祭られている神様

宇都宮二荒山神社大鳥居

旭野:今度は神社の祭られている神様の特徴とかお願いします。
助川:そうですね。三輪山で夢を見たときに「八度(やたび)鉾ユケシ 八度(やたび)太刀カキス」と。即ち、鉾で突いたり刀で切り込んだ、という武の姿を夢見た。という事で一番苦労している東の国へ行って土地を治めなさいと(豊城入彦命が)御差遣(ごさけん)された。
「背けば”うつのみや”とこそ聞け」と言うこと。”うつ”とは”討つ”のこと。つまり”討つの宮”。
旭野:はぁぁ。(感嘆)
助川:「”討つの宮”(うつのみや)とこそ聞け」という歌まで残っているくらいで、武の将軍様は皆さんここを通るとき戦勝祈願をしました。奥州討伐のときには必ずここを通って戦勝祈願をしたりね。またそれが叶ったときには、神社に宮仕えを置いていった。あるいは馬をご奉納したり、流鏑馬の弓矢をご奉納したりという歴史が残っています。
 またこの神社は歴代の宇都宮城主が社務職(しゃむしき)と言って、兼ねてここの宮司さんだった。
旭野:殿様が。
助川:はい。たまたま最初の方は前九年の役(平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役)の時に色々な願を掛けた人で、石山寺の座主 宗円さん(藤原宗円 平安時代後期)がうつのみやの初代城主で。3代目の方が社務職の関係もあって “一宮(いちのみや)”が訛った”うつのみや”。これの名前を頂戴しようと、そこから宇都宮氏(うじ)と名乗っていったわけです。それが22代まで続いて、北條家との戦の関係で秀吉(豊臣秀吉)に北條家にあまりに力を入れすぎたものだから(宇都宮家は)取り潰しとなった。それ以降、外様大名・譜代大名という歴史的に有名な方が歴代城主をしてきている。
旭野:ということはお殿様と神社はほとんど同じなんですね。
助川:えぇ、イコールですから。イコールご奉仕していたんですから。宇都宮藩のご法度集「弘安式条(宇都宮家式条のこと。制定年号から宇都宮家弘安式条などとも呼ばれる)」には宇都宮のご祭礼があるときは、鎌倉に幕府があって鎌倉に行って居っても必ず帰ってきなさいよと。帰ってこなかったらご成敗します。ご法度に引っかかりますよと。(笑)
そんな厳しい文章まで作った規則が残っているんです。
旭野:はぁぁ。(感嘆)
助川:ですから神主もきちっとしたご奉仕をしなさいよと。
もちろんその時には祠官(しかん)という職員神主社人がいっぱいいたわけですが。それに五ヶ坊(ごかぼう)といって5つのお寺があって、そこの供僧もこの神社のお祭りには必ず参列したり、奉仕をしたり。神仏混合の時代があるから(一緒に)やっていたわけですね。
 そのご法度集には子供の延年の舞を奉納するのに、その五ヶ坊から必ず男の子を作って、12歳~14歳くらいになると児延年の舞を教えて神社に奉納させなさいとあった。つまり「男の子を作らないような五ヶ坊はとんでもない!」と。(大笑)
旭野:(大笑)
助川:どうですかこれ?そういうご法度集まで全部あった。
また幕府(鎌倉時代)においても宇都宮家は非常に力をもった将軍様が歴代揃っていました。検校・引付衆・評定衆・検非違使、鎌倉時代の役なんですけれども、その役まで就いている歴代将軍様がいるわけです。ですから権限があったわけですね。
旭野:ですね。
助川:貞永式目(または御成敗式目とも呼ばれる)とか宇都宮家の式目がそっちに発展して行った。そういう幕府の規則を作る人が宇都宮から出て行ってるわけだから。それこそいかに宇都宮は盛んな土地であったか。
それをもっともっと突き詰めてゆくと、古代南河内町には薬師寺があったでしょう。奈良には東大寺という最古のお寺がある。西の守りは(みんな誰もが名前を知っている)大宰府天満宮。こういう風に三戒壇(さんかいだん)と言って、奈良時代に戒壇(かいだん)がおかれていた。免許を与える学校があったわけです。
向こうは西側から攻めてくるものを守るため。東国には蝦夷があったから。蝦夷から攻めてくるものを押さえつけるために、北の守りとして南河内町にそういうもの(学校)を作ったわけです。学問と僧兵と言う武力の取得を修めた拠点です。
 どこか(三戒壇)の学校に来るには、(このあたりでは)あえて栃木県に来なければ勉強できなかったと。

地名は二荒山を中心に

代表取締役会長 旭野 一郎

旭野:はぁぁ。(感嘆)
助川:学者が結構揃っていたんです。非常に文化事業の盛んな土地だったので。その子孫に立派な人が出た、ということは言えるかもしれないですね。
 一時は関東武者なんていって暴れん坊もいたでしょうけれど。(笑)
旭野:(笑)
助川:また門前町でしたから、二荒山を中心にして町が開けました。
駅前よりもこの辺が盛んだったのは門前町であったということと、将軍家の家人(けにん)たちはすべて神社の下、神社に奉仕する人はこの辺から県庁あたりが全部神主の。五ヶ坊が東側にあって、今の赤門通りだね。あとは本多正純(江戸初期の大名(1565-1637))が城下として一画にお寺を集めて寺町を作り、城画整備して辻や木戸を造った。攻めづらくするためにしていたことだと思うんですよね。
旭野:そうですね。
助川:はい。町そのものは城下町ですから。材木町だ、大工町だ、鉄砲町だ。曲げ物やるから曲師(まげし)町だなんてね。全て昔の城下町の職人の集まった町並みだったわけです。けれどその昔の名前は全部無くされてしまってね。非常に残念だけれども・・・・・・。
そういうものを残すことが、本来の仕事でしたよね。
旭野:そうですね。町名なんか変える必要ないです。
助川:そうですよね。郵便局の関係で、郵便物が配り易いようにって。
昔は道路を挟んで一町会でしたから。両側で挟んでそこに財産の山車だの屋台だの御神輿だのを持っていた。道路を挟んで町名が違ってしまったから自治会が非常に苦労している。
旭野:はぁぁ(感嘆)。だいたい神社のお話はこういうのをするとみんな興味が持てる。
助川:非常に興味が持てて。そこへ百目鬼(どうめき)の話だとか、藤原藤太秀郷(平安時代中期の武将) の話だとか。
あるいはこの辺りの土地は河内の郡 池辺の郷(いけのべのごう)と言って、池の辺りの郷(さと)にあったんだと。それは何かというと、神社の上に池上町・泉町、下には宮島町に八河原、みんな水に係るような地名があるでしょ。それはやっぱり周りに沼か池があったから池辺の郷なんだね。ずっとこれがご本丸のあたりまで山伝いになって、今のパルコの所が出っ張って高くなり、荒尾崎と申されそこに最初神様を祭っていたんです。今の神社の下の宮(しものみや)のところ。それをこの現在の臼が峰という土地に移したのです。そんな歴史があるので別名”移しの宮”から”うつのみや”になったんだという説もあるんですよ。
 毛野国一宮(けのくにのいちのみや)。上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)があって下野国の一宮。愛知県一宮市なんていうのはそのまま一宮市で残ったんだけれども、栃木県一宮市じゃなくて一宮が訛って宇都宮市になったわけ。(笑)
ですからこの地名というのは、二荒山神社から出た地名なんですね。
また「泣く子も黙る馬場(ばんば)かな」といって、馬場へ行くと聞くと泣いている子供も泣き止んだというくらい門前町は非常に賑わっていた。
旭野:賑わっていたんですね。


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