時事談話

時事談話 伊東永峯(多氣山不動尊長老)

近くて遠きは田舎の道、遠くて近きは男女の仲

多氣山不動尊長老 伊東永峯

伊東:あと、川越から加須に抜ける埼玉県を通る途中のことです。少し先にケヤキの木が見えて、暑い日差しだったのでそのケヤキで一休みしようかと、ケヤキだけを見てそれを目指して、歩いたのですが、なかなかたどりつかなかったのです。あとで知ったのですが、「近くて遠きは田舎の道、遠くて近きは男女の仲」ということわざあったのです。人生これだなと教えてもらいました。やはり大きな目標を持たなくてはいけないが、そればかり見ていては疲れてしまいます。その目標に向かった小さな目標をしっかりやることが、大きな目標に到達する第一歩だと思います。

旭野:とても味わい深い教えでございます。
こうして対談をすると、いろいろなことが勉強になりますね。
多氣山不動尊の歴史をお伺いしてもいいですか?

ご本尊馬頭観世音菩薩を祀りました

伊東:ここにお寺が作られたのは、弘仁13年と言われております。今から約1200年前、平安時代の中頃です。お寺の縁起によると、日光を開いた勝道上人の弟子に”尊鎮法師”という方がいました。その方が修行をしていて、この山に白馬の導きによって、霊気を感じて御堂を建てました。そして、ご本尊馬頭観世音菩薩を祀りました。
旭野:なるほど。
伊東:その後、建武2年9月1日に、宇都宮9代城主藤原公綱というお殿様が、氏家勝山城から不動明王を当山の本尊として遷座山しました。そして、不動明王が当山のご本尊にかわって670~680年ぐらいになりますね。前九年後三年の役(陸奥の安倍頼時一族と源頼義、義家父子の間で行われた争乱)で、安部一族を平定するために、源頼家が総大将で下野にくだり、氏家勝山城を最前線として、そこから奥州に出向いたのです。
安部一族を平定させるには12年かかりました。その不動明王を源一族の先祖、源頼光が大江山の鬼を退治するという祈願を込めるために、多田満仲に頼んで作った仏様がありました。それが比叡山の鬼立滝というところに安置してあった不動明王でした。
それをぜひ本尊として頂きたいと申し出て、勝山まで持ってきました。そして、百ヶ日の祈願を込め安部一族を平定することができました。
旭野:簡単には平定できなかったのですね。
旭野:多氣山不動尊の歴史も教えて頂けますか?

多氣山不動尊は”氣”が多い山なのです

代表取締役会長 旭野 一郎

伊東:多氣山不動尊を一口に言えば、読んで字のごとく”氣”が多い山なのですよ。氣というのはエネルギーで、自然がたくさん残っているのです。多氣山不動尊の山の森は、昔のままで何百年も一切手を加えたことがないのです。暖帯植物林の北緑と言って、植物学的にも珍しい植物があるのです。
旭野:それは大きな特徴ですね。
伊東:もうひとつ自慢できることは、宇都宮市内で一番高い所に生活しているということです。宇都宮で一番先に朝日が当たる場所ですよね。
旭野:布教についてですが、お話をお願いします。
伊東:お話を聞きに来てくれる方のために、初詣期間はお護摩を一日6回、元旦は一日10回焚いて、お話をしています。今年はこうですよ、今年はこちらの方角が悪いですよ、ということをお話させて頂いています。”大悲の会”というのもありまして、これは後に残された人たちの集まりで、同じ気持ちの人たちがいるという中で、自分のお話をするのです。それも布教のひとつかと思います。

人の命、物を大切にする気持ちを忘れずに

旭野:最後にこのホームページを見てくれている方々に、何か提言・アドバイスがありましたらお願いします。
伊東:今、仏教、仏の教えが薄らいでいて、これは私たちの責任もあるのかもしれないですけど、人という字は1本の棒では支えられない、2本の棒で支えあって、間を大切にしてはじめて人間なのですね。人の命、物を大切にする気持ちが軽くなってきたと感じます。
そういう意味では、世の中が不安な時代になってきたと思います。
私たちは、持って生まれた命、仏の教えは”命は限りあるもの、限りあるからこそ、今日という日を一生懸命生きていきなさい”ということだと思います。
私がここにいるのも、多くの先祖の方々のおかげです。
私がここにいるのも、奇跡なのです。
みなさまがここにいるのも、奇跡なのです。
そういう自分の命、この世に生まれてきた奇跡なのですから、大切にしなくてはいけないということです。人としてお互いが支え合うことが大切です。
そういう意味で自分自分も大切にして下さい。
旭野:大変わかりやすい提言ありがとうございました。

時事談話 金子立(今宮神社宮司)

平成22年に創建950年という大きな節目の年を迎えます

今宮神社宮司 金子立

旭野:日光東照宮にいた時はどうでしたか?
金子:私が奉織をしていた頃は、今の稲葉宮司さんが宮司さんとして正式に就任するちょっと前だったのです。
10年間奉職をさせていただいたのですが、私が辞めるときに世界遺産に認定される時だったのですよ。今宮神社も遷宮(せんぐう)700年という大きな節目があったのもので、辞めさせてもらいたいとお話しましたら、「これから忙しいのだぞ」と言われたりしました(笑)
旭野:次に神社の紹介もお願いいたします。神社の歴史についてお願いいたします。
金子:今宮神社は、平成22年に創建950年という大きな節目の年を迎えます。今宮神社が、神社として建てられてから、950年目の年になるということです。
今から950年前というと、平安時代末期なのですよ。平安時代末期にはじめて、この氏家地方という地を統括したのが勝山城の城主、氏家氏だったのですよ。
氏家氏はもともと、宇都宮城の初代の曾孫にあたる方で、氏家町の名前の由来でもあるのです。
旭野:そこから地名になったわけですね。
金子:そうです。その勝山城主の氏家氏が統括した時代に、宇都宮明神、豊城入彦命 ( とよきいりひこのみこと )と、地元でお祭りをしていた須佐之男命(すさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を合わせて、お祭りをしました。
最初建っていた御社(おやしろ)というのはそこそこ大きい大社だったのですが、それを今から700年前、鎌倉時代末期~平安時代には、さらに氏家氏の領地がすごく広大な土地だったのですよ。24の集落に分かれていて、北は塩原から南は高根沢のほうまで広がっていて、広大な土地だったのです。
そして700年前に、元はここから1km離れたところに御社があったのですが、現在の場所に建てました。さらに大きい境内地を作ったのです。
旭野:そうすると氏家駅のあたりですか?
金子:今の黒須病院のあたりです。
そして、ここの氏家のお殿様は、歴代、武芸が非常に達者であると言われており、鎌倉幕府の正式文書とされる吾妻鏡(あづまのかがみ)に、源頼朝自身が「氏家氏の流鏑馬(やぶさめ)が見たいから、呼んでこい」とお呼びがあって、鎌倉まで行って流鏑馬を披露したと代々伝えられています。

我々神主の役目

今宮神社大公孫樹

旭野:それでは最後に布教と、これを読んでくださっている方々への提言についてお話をお伺いしてもいいですか?
金子:はい。まず一般には布教と言われているのですが、私たちは教化と言っております。
教化の話なのですが、神主の言葉で神様の世界を語ると難しいので、その言葉を噛み砕いてお伝えするのが、我々神主の役目だと思っております。
できるだけ自分が勉強しておかないと、わかりやすい言葉でお伝えできないので、それは気をつけるようにしております。まだまだ勉強不足で、奥が深いのですよ。
旭野:日本語というのは難しいですよね。
金子:はい。神様の世界も難しいのですよ。例えていうなら、大学で優秀な数学の先生が、小学校の1年生に算数を教えるのはすごく難しいのですが、でもそれをできなくてはいけないのですよね。それが数学を理解していることでもあるのです。だから、我々神主もこの難しい世界をわかりやすく、理解してもらえるように、本質を伝えるための努力をするのが教化ということですね。

近くの神社へお参りに行ってください

代表取締役会長 旭野 一郎

旭野:なるほど。ホームページでこのサイトを見てくださっている方に、何か提言、伝えたいことがあったらお願いします。
金子:そうですね、「近くの神社へお参りに行ってください」ということですね。
うちの神社にお参りに来て下さいというよりも、地元の神社へ行って地元の歴史に触れるというのはとても大切なことだと思います。
難しい話になってしまうのですが、孫子(そんし)の兵法(へいほう)に”彼を知り、己(おのれ)を知りて戦えば、百戦(ひゃくせん)して危(あや)うからず”という言葉があるのですけど、戦後、日本人は骨抜きにされてしまったのですよね、敗戦国になってしまって。でも、自国の良さを認識する、要は自分の国に誇りを持つというのは大切です。
だから、自分の家の近くの神社に行って、地元の歴史に触れる機会を持ってもらいたいです。
旭野:はい、私も神社に行く機会を増やして、地元の歴史に触れたいと思います。
お話ありがとうございました。

時事談話 伊東永峯(多氣山不動尊長老)

24歳でこの山の住職になりました

多氣山不動尊長老 伊東永峯

旭野:住職さんから長老さんになってからのお話をお聞かせ下さい。
伊東:住職を息子に譲って2年近くになりますが、私も大学を卒業してすぐ24歳でこの山の住職になりました。それは前の住職(父)が亡くなったというのもあって、私が大学を卒業するのを皆様が待っていた状態でした。
息子の住職も今は34歳ですから、私が34歳の時は約10年近く住職をやっていたわけですよ。
旭野:そうですよね。
伊東:お寺の継承というのは、前の住職が亡くなったら譲るというのがずっと慣例になっていたわけです。しかし、住職というのはお寺の代表役員ですから、すぐに住職になるよりは前の住職をよく見て勉強して責任を持てるようになって、運営していって頂けたらいいかなと思います。
今は2人でお寺のことをやっていますけど、お互い助け合いながらやれるという状態なので、早めに責任ある立場になるのもいいと思います。
旭野:住職になるのも資格がいるのですよね?
伊東:そうです。ここは真言宗智山派ですから、大学は大正大学に行きました。宗門の学校として認められて、そこで4年間勉強しているうちにいろいろな修行を行うのです。そうすると、卒業して僧階(お坊さんの位)が頂けます。
僧階は、権律師、律師、権少僧都、少僧都、権中僧都、中僧都、権大僧都、大僧都・・・・・とありまして、一番上が大僧正です。
長老というのは、お坊さんになって30年、年齢が60歳以上という基準を満たしていれば、長老になれます。
私が今長老としてやっていけるのも、お檀家さんや信者さんなど多くの人たちのおかげなので、これからの私の長老としての務めは、感謝の気持ちを持って恩返しをする時期なのだと思います。
旭野:40年間住職をやっていたのですよね?長いようで短かったと思います。
伊東:そうですね。振り返ってみるとあっという間ですね。
旭野:大正大学時代のエピソードをお聞かせ下さい。
伊東:私が入学した時は、お寺を守っていてくれた和尚さんが二人いたのですけど、その方々も自分でお寺を持ったり、結婚したりしてお寺を離れてしまったのですよ。
お寺に残ったのは祖母と母と私の3人になってしまったのです。私は大学2年生の時、東京の宗派の寮にいたのですが、大学3年生の時からは宇都宮から東京まで通いました。
旭野:その時は、新幹線ありました?
伊東:ないのですよ。それなので、学校に行くのに移動時間だけで、片道2時間30分往復5時間かかってしまいました。
旭野:私も昔、小山から銀座に3年間通勤していたのですが、片道2時間かかってしまいました。 伊東:そうですよね。今でこそ、新幹線で1時間くらいで都内に行けてしまいますからね。

高尾山で見習いをしていました

多氣山不動尊

旭野:大学時代はどのような生徒さんでしたか?
伊東:私はどちらかと言うと、真面目なほうでしたね。
私の息子はいろいろやっていて、渓流釣りをしたり、サーフィンをしたり、海に行ったり、山に行ったりして自然からたくさんのことを学んだようです。
旭野:とてもアクティブなのですね。
伊東:私はそういう余裕がなかったです。学校に行ってお寺のこともやって、それだけで精一杯でした。
私は、大学を卒業してもすぐには住職の仕事はできないと思って、1年間見習いをさせてほしいと言ったのですよ。
うちの宗派の大本山が、成田山・川崎大師・高尾山なので、その中で、同じ環境なのが高尾山だったので、見習いで働けるようにお願いして、大学を卒業した3月27日から行きました。山で信者さんとの接待やお付き合いの仕方、実際の現場での体験をしました。
それが私と高尾山との最初のつながりです。

八王子から多氣山不動尊まで歩いて1週間かかりました

代表取締役会長 旭野 一郎

私が八王子から家に帰るときは、当時4時間くらいで帰ってこられたのですよ。そこで、電車ならいつでも帰れると思って、私は多氣山不動尊まで歩いて帰ったのです。
旭野:八王子からここまでは遠いですよね。どのくらいかかったのですか?
伊東:距離は160kmくらいあって、1週間かかりました。
地図を買って道筋を調べて、泊まるところは同級生の家に泊めてもらいました。
でも、それはやってよかったと今でも思います。
みなさん、網代笠をかぶり衣を着て、金剛杖をつく私の姿は珍しいのですね。多くの人の視線を感じ、時にはお婆さんが「ごくろうさま」と言って10円をくれた時もありました。
旭野:そんなことがあったのですか。
伊東:その「ごくろうさま」という言葉が何よりも嬉しかったです。

時事談話 助川通泰(宇都宮二荒山神社宮司)

宇都宮二荒山神社宮司 助川通泰

旭野:5番目は”布教”について。
助川:やはり神社も主祭神の功績とか、今のようなあくまで宇都宮は二荒山から始まった門前町なんですよと言うことで歴史をご理解戴いて。それと同時に昔から伝わっている伝承等を本当は機会があるごとに勉強戴いて、神様のありがたさと同時に神道的な感謝の気持ちを持つことだね。そうすることによって本当に争いのない平和な世界を作ることが出来る、ということで。
 神道的な精神というのは、神様というのはいろいろな神様があります。1つの神様にも和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)という平和の和の心と荒れる心が両方あるんだと。それを一緒に混ぜ取捨選択してそして初めて尊敬できる形の者が出来るんだと。そういう解釈があるわけです。だから「神(かむ)集いに集い(集まり) そして神議(はか)りに議る(協議をする・議論をする)」という。そして皆さんの中から良いものを選んで国を治めてゆく。これは非常に民主主義でしょう?
旭野:はい。
助川:これが要するに政(まつりごと)なんですよね。
ですから神主がいない時代に、昔の部落の長が敵に攻められないところに、しかも一番眺めの良いところに稲穂を納める蔵を作った。それを祠というんです。稲穂の蔵で”ほこら”です。小さなお宮を祠と言うでしょう?
旭野:あぁ。祠って言いますね。
助川:その場所に村長が集まって「神議りに議る 神集いに集い」てこの部落をどうやって治めようかと話し合った。それが昔の政治。それを政と言った。”まつり”というのはそういうものなんですね。
旭野:布教なんですね。お祭りも布教だし。
助川:すから我々は、布教という文字がたまたまあるけれど、神様のご威徳を神徳宣揚(しんとくせんよう)、あるいは神道宣布(しんとうせんぷ)というような言葉を神道では布教を指す言葉として使うわけです。だいたいはそういう精神でご理解戴く。それと浄明正直(じょうめいせいちょく)。浄く(きよく)、明るく、正しく、直く(なおく)という言葉を非常に大切にする。それを守って居れば道徳的にも世の中は治まって行くわけだ。
旭野:ですよね。

代表取締役会長 旭野 一郎

助川:なおかつ、神様のお力でこの世に先祖からの生をうけ生活できることに感謝の気持ちを持って居れば、世の中に不満は何も起こらないと、いうことですね。その辺が神道のいつでも神にこたえる行動なんじゃないかなと思うわけです。神は高天原(たかまがはら)より常に太陽のみ光りとご照覧を下さっていますので。
旭野:最後のまとめ、”読者への提言”になりますが。
助川:はい。二荒山神社というのは非常に市街地にあって、小高い昔の古墳でもあるんです。その丘の頂に。正面に95段の階段を作りまして、しかも昔の城主様が社守をしたということもあるのでしょう。お城作りの石積み15~16m高さまで積み上げて、そして本殿・拝殿・神楽殿、全ての物を揃えた輪奐(りんかん)の美を整えたお社であると。尚且つ各将軍が信仰したように戦運や心願成就の神であると同時に火伏せ(ひぶせ)の信仰もあります。そして安産縁結祈願の大変昔から歴史のある信仰を寄せて戴いた神社です。
 昔は群馬県と栃木県の毛野国の鎮座ということで、4月19日には東國御治定祭が行われ、終戦まで群馬県の知事さんと栃木県の知事さんが参列していた。祝詞(のりと)の中に「群馬・栃木両県(あがた)の国民が幸せであるように」と今でもちゃんと奏上しています。
 社殿的には戊辰の役で消失したために、今の御殿は昔に比べて非常に質素ではあるけれども、家康公が当代棟梁になって社殿を造営しています。徳川家歴代、悪くなるときは必ず綺麗に直し明治までは保存されて居った。彩色されて、ご本殿の中扉にまで絵があったというくらい素晴らしい社殿であったと言われています。
 昔はこの境内で南へ向かうと富士・筑波(山)が見えた。関東平野の一番北に鎮座して、全てを眺望することが出来たというところに鎮祭されていた神社です。今では街の真ん中のビルに囲まれた、市街地の中の鎮座地ですけれども。それにしても街の中にあって昔の国幣中社の待遇を受けた歴史のある神社ですと言って戴いても問題ないですね。
旭野:で、お参りに来ていただく方には駐車場もたっぷりありますしね。
助川:そうですね。
旭野:こちらの一つの財産です。街のど真ん中ですものね。
助川:はい。400台からの駐車場を持っているというのは
旭野:なかなかないですよね。
助川:観光神社ではないけれども、その点では一般の信仰者が大変多くて。
旭野:大勢の方の心の癒しをしてあげるというのは大きいですよね。
助川:そりゃもう大きいことです。ここへ来て、あぁ昔の宇都宮が残っていたと。境内上がってきて始めて昔の宇都宮に出逢えたと。大変喜んで戴くと。ですからご年配の方は、そういう気持ちで来られるし。やはり街の中の緑という事で心安らげると。歴史古く深いご神徳あらたかな神様の心の故郷だということでご参詣戴ければありがたいよね。
旭野:長い時間ありがとうございました。

時事談話 助川通泰(宇都宮二荒山神社宮司)

大鳥居

宇都宮二荒山神社宮司 助川通泰

旭野:次は”神社のご紹介”ということで、特ダネを出していただいて。(笑)
助川:なるほど。(笑)
氏神様として信仰を受けていますので、氏子様や崇敬者はもちろんですが、最近色々な神社からの参拝が非常に増えてきました。例えば、我々の神社で言う一番由緒の深い御本山的な。御祭神と縁故の深い奈良県の大神(おおみわ)神社。一般には三輪(みわ)神社と言いますが。そのお社で本社の御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、山の頂で夢を見てその見た夢によって東へ勅命を受けて御越しになった神様なんです。そういう非常に縁の深い大神神社から、今3班に分けて神社参拝に来られるとか。
それから埼玉県の大宮市にある武蔵一之宮の大宮神社からも3班に分けてこの間参拝団が来ていました。今日も栃木県の式内社(しきないしゃ)である村檜(むらひ)神社の宮司さん以下役員さんがお参りになる。最近そういう団体が非常に多くて。この間は1日に3組だなんて(笑)。最近までない現象なんですけれどね。そんなことが最近多く、有難いことです。
それからご存知の通り、再開発の関係で少し社頭が綺麗になるので。思い切って終戦直後の仮の鳥居だったものを綺麗にしようと。皆さんの協力を戴いて、明治以前まで使っていた両部(りょうぶ)鳥居の復元を。しかも全て地物で無垢の欅材でより太い立派な両部鳥居を作ることが出来た。最近としては大変大きな神社の歴史に残る事業であったかもしれませんね。
旭野:たしかにあちらこちら回って鳥居が気になるんで見ますけれども、全然段違いですね。
助川:その点は大事業でしたがだいぶお褒め戴いて居ります。ありがたいですよね。
旭野:この大きな鳥居も、私が夢見たようなかんじだったんですよ。
助川:本当に。最初からご熱心にご理解戴いて。協力も戴いて。
旭野:こういうのがほしいって。願望はございましたよね、宮司さんの。
助川:えぇ、以前からもって居った夢をね実現することができました。
旭野:ひょこっと私が銘木屋に電話しただけなんです。まさかあるとは思わなかった。「二荒山で鳥居って話が出たんだ。どうだい? 県内だよ」っと。そしたらやっぱり(銘木屋は)全部あるのを知ってるんですね、大きい木。
助川:もうだいたいリストはあったんでしょうね。
旭野:間髪いれず(銘木屋が)「ありますよ」と言うので、こちらはビックリしちゃって。
助川:しかも80cmだったのが90cmの物まで見つけることが出来て。その物を使うことが出来たという事は、絶対に簡単に出来ることじゃなかったしね。
旭野:お話を受けた方(欅の持ち主)が、みんな快く「良いですよ」と言って、切れたらしいですよ。
助川:えぇ。
旭野:二荒山神社という言葉だけで、OKだったらしいです。
助川:そういう事らしいですね。その辺がね。
旭野:いかに二荒山神社というのがありがたいか、ですよね。
助川:今までは「先祖からの木だから切りたくなかったんだよ」とおっしゃる木も、二荒山の鳥居に使う。「あぁ、いつもあの姿で見る二荒山の表玄関を飾る鳥居に使って戴けるんだ」と言うことで、皆さん協力戴けたんだと思います。
旭野:(銘木屋の)大林君が感心しているんですよ。二荒山神社と一言言えば、なんとかなると。県外の大きな神社とかあちらこちらから話が来ているけれども、それは言っても駄目なんですって。地元の。(笑)
助川:そこですよ、きっとね。(笑)歴史の重さと言うか。それはありがたいものです。

祭られている神様

宇都宮二荒山神社大鳥居

旭野:今度は神社の祭られている神様の特徴とかお願いします。
助川:そうですね。三輪山で夢を見たときに「八度(やたび)鉾ユケシ 八度(やたび)太刀カキス」と。即ち、鉾で突いたり刀で切り込んだ、という武の姿を夢見た。という事で一番苦労している東の国へ行って土地を治めなさいと(豊城入彦命が)御差遣(ごさけん)された。
「背けば”うつのみや”とこそ聞け」と言うこと。”うつ”とは”討つ”のこと。つまり”討つの宮”。
旭野:はぁぁ。(感嘆)
助川:「”討つの宮”(うつのみや)とこそ聞け」という歌まで残っているくらいで、武の将軍様は皆さんここを通るとき戦勝祈願をしました。奥州討伐のときには必ずここを通って戦勝祈願をしたりね。またそれが叶ったときには、神社に宮仕えを置いていった。あるいは馬をご奉納したり、流鏑馬の弓矢をご奉納したりという歴史が残っています。
 またこの神社は歴代の宇都宮城主が社務職(しゃむしき)と言って、兼ねてここの宮司さんだった。
旭野:殿様が。
助川:はい。たまたま最初の方は前九年の役(平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役)の時に色々な願を掛けた人で、石山寺の座主 宗円さん(藤原宗円 平安時代後期)がうつのみやの初代城主で。3代目の方が社務職の関係もあって “一宮(いちのみや)”が訛った”うつのみや”。これの名前を頂戴しようと、そこから宇都宮氏(うじ)と名乗っていったわけです。それが22代まで続いて、北條家との戦の関係で秀吉(豊臣秀吉)に北條家にあまりに力を入れすぎたものだから(宇都宮家は)取り潰しとなった。それ以降、外様大名・譜代大名という歴史的に有名な方が歴代城主をしてきている。
旭野:ということはお殿様と神社はほとんど同じなんですね。
助川:えぇ、イコールですから。イコールご奉仕していたんですから。宇都宮藩のご法度集「弘安式条(宇都宮家式条のこと。制定年号から宇都宮家弘安式条などとも呼ばれる)」には宇都宮のご祭礼があるときは、鎌倉に幕府があって鎌倉に行って居っても必ず帰ってきなさいよと。帰ってこなかったらご成敗します。ご法度に引っかかりますよと。(笑)
そんな厳しい文章まで作った規則が残っているんです。
旭野:はぁぁ。(感嘆)
助川:ですから神主もきちっとしたご奉仕をしなさいよと。
もちろんその時には祠官(しかん)という職員神主社人がいっぱいいたわけですが。それに五ヶ坊(ごかぼう)といって5つのお寺があって、そこの供僧もこの神社のお祭りには必ず参列したり、奉仕をしたり。神仏混合の時代があるから(一緒に)やっていたわけですね。
 そのご法度集には子供の延年の舞を奉納するのに、その五ヶ坊から必ず男の子を作って、12歳~14歳くらいになると児延年の舞を教えて神社に奉納させなさいとあった。つまり「男の子を作らないような五ヶ坊はとんでもない!」と。(大笑)
旭野:(大笑)
助川:どうですかこれ?そういうご法度集まで全部あった。
また幕府(鎌倉時代)においても宇都宮家は非常に力をもった将軍様が歴代揃っていました。検校・引付衆・評定衆・検非違使、鎌倉時代の役なんですけれども、その役まで就いている歴代将軍様がいるわけです。ですから権限があったわけですね。
旭野:ですね。
助川:貞永式目(または御成敗式目とも呼ばれる)とか宇都宮家の式目がそっちに発展して行った。そういう幕府の規則を作る人が宇都宮から出て行ってるわけだから。それこそいかに宇都宮は盛んな土地であったか。
それをもっともっと突き詰めてゆくと、古代南河内町には薬師寺があったでしょう。奈良には東大寺という最古のお寺がある。西の守りは(みんな誰もが名前を知っている)大宰府天満宮。こういう風に三戒壇(さんかいだん)と言って、奈良時代に戒壇(かいだん)がおかれていた。免許を与える学校があったわけです。
向こうは西側から攻めてくるものを守るため。東国には蝦夷があったから。蝦夷から攻めてくるものを押さえつけるために、北の守りとして南河内町にそういうもの(学校)を作ったわけです。学問と僧兵と言う武力の取得を修めた拠点です。
 どこか(三戒壇)の学校に来るには、(このあたりでは)あえて栃木県に来なければ勉強できなかったと。

地名は二荒山を中心に

代表取締役会長 旭野 一郎

旭野:はぁぁ。(感嘆)
助川:学者が結構揃っていたんです。非常に文化事業の盛んな土地だったので。その子孫に立派な人が出た、ということは言えるかもしれないですね。
 一時は関東武者なんていって暴れん坊もいたでしょうけれど。(笑)
旭野:(笑)
助川:また門前町でしたから、二荒山を中心にして町が開けました。
駅前よりもこの辺が盛んだったのは門前町であったということと、将軍家の家人(けにん)たちはすべて神社の下、神社に奉仕する人はこの辺から県庁あたりが全部神主の。五ヶ坊が東側にあって、今の赤門通りだね。あとは本多正純(江戸初期の大名(1565-1637))が城下として一画にお寺を集めて寺町を作り、城画整備して辻や木戸を造った。攻めづらくするためにしていたことだと思うんですよね。
旭野:そうですね。
助川:はい。町そのものは城下町ですから。材木町だ、大工町だ、鉄砲町だ。曲げ物やるから曲師(まげし)町だなんてね。全て昔の城下町の職人の集まった町並みだったわけです。けれどその昔の名前は全部無くされてしまってね。非常に残念だけれども・・・・・・。
そういうものを残すことが、本来の仕事でしたよね。
旭野:そうですね。町名なんか変える必要ないです。
助川:そうですよね。郵便局の関係で、郵便物が配り易いようにって。
昔は道路を挟んで一町会でしたから。両側で挟んでそこに財産の山車だの屋台だの御神輿だのを持っていた。道路を挟んで町名が違ってしまったから自治会が非常に苦労している。
旭野:はぁぁ(感嘆)。だいたい神社のお話はこういうのをするとみんな興味が持てる。
助川:非常に興味が持てて。そこへ百目鬼(どうめき)の話だとか、藤原藤太秀郷(平安時代中期の武将) の話だとか。
あるいはこの辺りの土地は河内の郡 池辺の郷(いけのべのごう)と言って、池の辺りの郷(さと)にあったんだと。それは何かというと、神社の上に池上町・泉町、下には宮島町に八河原、みんな水に係るような地名があるでしょ。それはやっぱり周りに沼か池があったから池辺の郷なんだね。ずっとこれがご本丸のあたりまで山伝いになって、今のパルコの所が出っ張って高くなり、荒尾崎と申されそこに最初神様を祭っていたんです。今の神社の下の宮(しものみや)のところ。それをこの現在の臼が峰という土地に移したのです。そんな歴史があるので別名”移しの宮”から”うつのみや”になったんだという説もあるんですよ。
 毛野国一宮(けのくにのいちのみや)。上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)があって下野国の一宮。愛知県一宮市なんていうのはそのまま一宮市で残ったんだけれども、栃木県一宮市じゃなくて一宮が訛って宇都宮市になったわけ。(笑)
ですからこの地名というのは、二荒山神社から出た地名なんですね。
また「泣く子も黙る馬場(ばんば)かな」といって、馬場へ行くと聞くと泣いている子供も泣き止んだというくらい門前町は非常に賑わっていた。
旭野:賑わっていたんですね。

時事談話 助川通泰(宇都宮二荒山神社宮司)

助川通泰(宇都宮二荒山神社宮司) ×旭野一郎

旭野:1番目の”時事”。世間の話題をと言うことで裁判員制度についてお聞かせ下さい。
助川:例えば学生でね、法学部などを出られた方はある程度はわかるでしょうけれど。実際には、裁判所で裁判官と一緒にとなると大変難しい用語が羅列しています。
とにかく裁判官というのは、しゃべった活字そのものの意味を全て理解してから発言しないと駄目ということになっていますからね。その点が素人さん・・・我々にとっては難しい問題になるんじゃないかなと思います。
それから裁判の中でも少し厳しい刑法に引っかかる事件になりますと、なかなか判断は難しいと思います。
旭野:重大な犯罪の場合は難しいですよね。
助川:そう思いますね。
旭野:今度この制度が出来たので、冤罪的な裁判は無くなるかどうかですよね。
助川:本当ですね。その辺は我々には想像がつかないんですけれど。
旭野:裁判員制度というのはあまりにも知名度は高いのですが、中身がぜんぜんわからない。

裁判員制度の中身…

宇都宮二荒山神社宮司 助川通泰

助川:もう少し説明をしてくれれば良いんですけれどね。
6人居るから・・・裁判官と9人ですか、その構成員でいろいろ黒白つけろと。刑法の量を数値で測るんだ、ということのようですけれどね。
旭野:私もあちらこちらで大勢の人に合うんですが、誰も知らないというんですよ中身を。
助川:(裁判員制度は)外国から広まってきたもので、他がやっているから日本もやろうという真似事なんです。その点は実際日本で定着するかどうかですね。しかもアメリカですか、一応止めようという話も出ていた事ですよね。
そういう問題を考えると、あえてここでやらなければならないのかなと。我々もまた良く理解していけば「ごもっとも」になるんでしょうけれど。今のところはそういう気持ちしかないですね。
旭野:そうなりますと、どこかの誰かにメリットがあるんでしょうね。
助川:開かれた裁判という意味では、メリットはあるんでしょう。
旭野:裁判官が足らないので集めてしまえば俺たちが楽になる(笑)、というような悪い考えもあるようですが。
助川:足らないからなのか、日本の国は裁判の判決までの期間が長いですよね。
本当に長い資料を全部読破してから、ちょっと進めて。また何か出てくると、また1ヶ月2ヶ月置いてそれで裁判というような形があるわけですから。どうしても期間が長くなる。
旭野:裁判期間が長い。日にちを長く要する。それを何とかしようと言う事もあるんでしょうね。
助川:それも含まれているようですね。
ですけれど、裁判員に選ばれた方は大変長い時間を縛られる。それが大変でしょう。
来週の何日に来てくれと言うのならば何とか都合を付けられますけれど、その中で選ばれた人が集まって、適任者かどうか。またそれから何日かかかるというんですからね。
その点は大変気の毒だと思います。

父は内務省管轄の神職

宇都宮二荒山神社大鳥居

旭野:2番目の”宮司さんのご紹介”ということで。いかようにご紹介すればよろしいですか?
助川:そうですね。こういう職業は特殊職業でもありますのでね。私などはあくまで先祖代々神職の家系に生まれた一員ということでして。父親も京都へ行って修行して、京都で私を出生している。兄弟5人居っても、5人とも生まれた所・・・出生地が違うんですから。
旭野:そうなんですかっ。(驚)
助川:先祖代々1つのお宮を守っている神主ではなくて、内務省管轄の神職でしたから。公務員的な系列の神主だったんです。
ですからどうしても3年に1回転勤がある。それによって出世もする。というような時代だったんです。
それで京都にいて戦時中いよいよ京都が危ないというので、出身地栃木県の日光へ赴任しました。その関係で私も一緒に来て日光で育っているわけです。
普通のお宮でしたら神社で社務所があってそこで奉仕をします。父親の白衣の姿を見ているわけですが、そういう神職とは違うんですよね。「いってきます」と言って家を出て、神社で白衣に着替えて神職の奉仕をして、夜また背広で帰ってくると。
一般の(神職の)人は、家族一緒にお宮と社務所で同じ生活ですから。もう全ての父親を見ているんですけれど、我々は神社そのものの生活を何も知らない神主の息子ということですね。(笑)

栃木への帰省

代表取締役会長 旭野 一郎

旭野:内務省のお役人だったわけですね。
助川:そうです。
そんなこともあってDNAに入っているのか、移動することは平気ですね。日光育ちで東京で大学を出て、それから箱根神社に勤務するわけです。箱根神社で神職として10年近く奉仕をして、神奈川県の神社庁で職員になった。そこで神奈川県の神社庁務と庁舎を建設する担当だったんです。
それで神社庁舎が完成したときに、両親共に栃木県人ですからね、栃木県へ帰ってこないかという話があって。それじゃということで(昭和)46年頃にこちらに赴任してきたわけです。
旭野:とすると昔は、(二荒山神社は)国で管理していた神社でしたよね。
助川:はい。官幣社(かんぺいしゃ)・国幣社(こくへいしゃ)という。そういう格のついたお宮にずーっと奉仕していた。こちらも国幣中社という待遇を受けたお社ですから。
旭野:そうですね。
助川:私ごとですが、高校2年の学生時代に父親が早く亡くなってしまったものですから、國學院(大学)に入るにもなかなか。父親がいない家の長男ですから、家族をとにかく見なきゃいかんので。
神主を日中やって、夜学(國學院)に通って、神主の最低限の資格を取得したんです。そして2年から昼間の一般学生に転部したわけ。
なんとか生活できる、資格を貰ったから。母親にはあと3年間頑張って上級の資格がとれるまで弟妹を見といてくれと。
旭野:はぁぁ。
助川:いろんな事情はあるんですが、都内の宮司さんが氏子さんからあまり良く思われていなかった。それで國學院の学生で、祭典奉仕の出来る学生を今年の例祭に世話してほしいと言うので選ばれてご奉仕に行ったんです。
旭野:珍しいですね。
助川:はい。前日下見に行きましたら、社殿など全然掃除が行き届いていない。
御殿の中を全部掃除して、白衣も顔も真っ黒で。こりゃ洗うのが大変だと思うくらい汚れながら掃除して、丁度出てきたところを総代さんが見てくれたんだね。「あの学生、今年のは良くやるぞ。是非うちで面倒見ようや」と言うんで。
昼間学校へ行かせてもらい、夜社務所に寝泊り留守番をする生活。今まで下宿していたその下宿代が助かって、毎月3,000円の小遣いまで頂戴して。(笑)
旭野:当時は大きいですよね。
助川:そんな事情で新宿にあるお宮に席を置き、そこでお宮参りがあると学校をちょっと抜けてお宮に帰り、お宮参りをしてそしてまた学校へ行って来ると。
学生神主です。苦労しました。
もっとも当時はみんなやっていましたけれどね。そんな事で、色々やってきた人間です。
旭野:かなり大きな特徴ですね。学生神主。
助川:ですから明治記念館の床掃除のアルバイトもやったし、靖国神社や明治神宮の正月や祭礼のお手伝いも行ったし。そうかと思ったら柿の木坂のお宮に助勤に行って、三島由紀夫さんのところで樽を抜いてくれて。夏祭り奉仕者に振舞い酒を受け飲んだ経験もあります。
旭野:凄いねぇ。
助川:たまには面白いからそんな経歴を物語にすると、自分史が出来そうなんだけれど。書く力があればいくらでも書けるんだけれどね。面白いと思うよ私の人生は。(笑)
旭野:三島由紀夫がコレ(割腹自殺)する前ですね。
助川:そうです。自由が丘にジムを作って教えていた時代。
1年間苦労したが、國學院の助勤学生のなかで神主の資格を持っていた私は非常にプラスになった。待遇のいい助勤学生として扱ってくれたわけ。それで三島さんも「國學院なんだってな」って言って。(笑)
そんなことでこちらへ来まして、神職歴は卒業以来通算52年になるんです。
旭野:長くお付き合いさせて戴いたなかで、学生神主と言うのは始めて聞きました。
助川:珍しいそんな経験もしてきた。
それでもちゃんと学校では、神主の資格だけじゃなくて、中学と高校の教職員の資格まで全部取って卒業してきました。
旭野:人生色々って小泉総理が言っていましたけれど、色々ですね。
助川:面白い経験でした。
旭野:ずいぶん苦労もなさったけれど、世のため人のためにおやりになったわけです。
助川:その点は嫌いじゃない方ですから。一所懸命、じっとしてられなかった人間です。
旭野:と言う事で宮司さんのご紹介でした。

時事談話 金子立(今宮神社宮司)

金子立(今宮神社宮司)× 旭野一郎

金子立(今宮神社宮司)× 旭野一郎

旭野:それでは最初に時事・お題についてですね。
宮司さんが、最近の時事・お題について何かお話しがありましたら教えてください。
金子:自分のHPのブログなんかでも、よく書いているのですが、地球温暖化の問題についてですね。最近あんまり騒がれないのですが、温暖化によって海面が増えてきたり、砂漠化になってしまったりといろいろ問題ありますよね。
そのへんについて、私は神主としてその問題をどのように考えたらいいのだろうと思っているのですよ。旭野さんは、地球温暖化についてどう思いますか?

天変地異や、神様のお怒り
今宮神社宮司 金子立

今宮神社宮司 金子立



今宮神社

今宮神社

旭野:地球温暖化はいろいろなところで、いろいろなことを言っていますよね。いかに南極の氷が溶けないようにするかなどを取り上げていまして、最終的に二酸化炭素を出さないようにということになりますよね。そこでエコという言葉が出てきましたよね。
金子:はい、エコポイントとかありますよね。
今、地球温暖化問題とか言われていますが、地球上の長い歴史の中でも、これまでも幾度となく繰り返されてきたことなのですよ。天変地異と呼ばれるものが幾度となく繰り返されていて、今、地球温暖化と騒がれていますが、実はいまさらのことなのですよね。
でも、ここで気がついたのは良いことなのですよ、今は科学的に、温暖化現象について解明できますので。
昔は天変地異とか、神様のお怒りという風に考えていたのですよ。

私たち神主は、昔は雷が落ちただけでも、雷神様が怒って警告を発しているのではないかと考えていたのですよ。そして、「現状を改めなくては。我々がなんとかしなくてはいけない」と、自分の気持ちを律する機会がたくさんあったのです。
他にも、生活の中には神様がいて、いろんなことに関して化学的な証明はできなくても、自分の中でも反省をしていたのですよ。
今は何でも科学的に処理しようとするので、神様が幾度となく警告をしてきたにもかかわらず、今のような事態が起こってきてしまったのかなと思います。
それなので今は、多くの神主さんがそういうことを発信してあげて、日本の慣習など日本人の正しい生活に戻そうと皆様にもやって頂けたらなと思います。
旭野:はい。時事問題について、とてもわかりやすいお話ありがとうございます。
次に、宮司さん自身の紹介をお願いいたします。
金子:私は、どちらかというとスポーツというのはあんまりやっていないですね。
むしろ、武道ばかりやっていて、弓道歴が一番長いですね。
あとは、私が今宮神社に戻ってくる前は、日光東照宮にいたのですよ。10年間お世話になって、やぶさめ(流鏑馬)や剣道をやらせて頂いていました。
それなので、今の柔道の世界でもよく言われているのですが、試合に勝ってよくガッツポーズをするのは、よくないと思いますね。武士道としては。
旭野:相撲協会でもよく問題にされていますよね。競技で勝った負けたはしょうがないのですがね。
金子:武道たるもの精神面を鍛えて、相撲道というものを極めてほしいですね。

自転車で箱根まで・・・
代表取締役会長 旭野 一郎

代表取締役会長 旭野 一郎

旭野:日光東照宮に、お勤めになる前は何をされていたのですか?
金子:大学生です。神主も大学出のものも多くて、私は国学院大学に4年行って、弓道をやっていました。今では宮司をやっていますが大学に行っていた時は、いいかげんでしたね。
そして大学時代は、いろいろなバイトをやっていたのですよ。もちろん神主のバイトもやっていたのですがね。大学生って貧乏ですよね。だから、食べ物関係のバイトが多かったです。
旭野:そうだったのですか。
金子:飲食物を売っているお店は商品管理のため、時間が立った食べ物は捨ててしまうのですよ。もったいないなっていつも思っていましたね。それなので、焼鳥の余ったやつをもらってきて、ルームシェアしていた友達と一緒に食べていました。トースターで温めてご飯にのせてタレをかけて・・・それが一番美味しかったですね。
ドーナッツ屋さんでもバイトしていました。
その余ったやつは、学校に持っていっていたのですよ。学校の皆も喜んでくれたので。しかし、それが1週間も続くと、「甘いものはもう見たくない」と言われてしまいましたね。せっかく持っていったのに(笑)
高校は、氏家高校に通っていました。今は、さくら清修高等学校と名前が変わってしまいましたけどね。
高校の時は、チャリンコ(自転車)小僧だったのですよ。友達が好きだったもので。自転車で友達と旅行するのが好きで、一番遠くて箱根まで行きましたね。テント持っていきました。
旭野:すごいですね。箱根まで相当の距離がありますよね。
学生だからこそできたのですね。
金子:そうですね。今では自転車で箱根まで行こうとは思わないですね。

時事談話 伊東永峯(多氣山不動尊長老)

伊東永峯(多氣山不動尊長老)×旭野一郎

伊東永峯(多氣山不動尊長老)×旭野一郎

旭野:最初に、”多氣山不動尊”という名前の由来ですね。宇都宮の田下町というところがありますが、発音は同じでも字は違うのですよね。

山号をとって多氣山と言われております

伊東:正式には、宗教法人持宝院と言います。お寺には山号、院号、寺号と3つの号があるのです。ここは多氣山、持宝院、不動寺と3つの名前があります。そこから、山号をとって多氣山と言われておりますが、持宝院という名前は一般の方は知らないですね。
私も、この山の名前が多氣山、地名が田下町となぜ漢字が違うのか疑問に思ったことがありまして、いろいろ調べたのです。もともとこの多気という山には、多氣城というお城がありました。城にはお殿様もいて、多氣山にはお寺もあり、不動明王が祀られているということで、この山は大変尊い山だということでした。それで、同じ字を使うことは恐れ多いということで字を変えたのです。 旭野:多氣山にたいして恐れ多いから、田下町となったのですね。一般的には多氣という町名はほとんど使われていないですよね。

多氣山不動尊長老 伊東永峯

多氣山不動尊長老 伊東永峯



多氣山不動尊

多氣山不動尊

伊東:そうですね。
旭野:今は多氣山不動尊ということで多くの方が、親しんでいますよね。
伊東:はい、多氣山というだけで通じますのでね。
旭野:この多氣山不動尊に上ってくるまでの長い道中は、なぜなのですか?
伊東:私の祖文の和尚さんがちょうどこのお寺に入りまして、今も残っておりますが多氣山のお参りの参道(旧道)というのが大変狭かったのです。そういう山道を曲がりくねって上ってきて、やはり広い道を作ろうということで、今のような道になったわけです。
今でこそ車で上れますけども、昔は砂利道で、雨が降れば川になるような狭い道でしたから大変でしたね。
旭野:だけど、我々は長い道中のほうが多少苦労してでも上りますよ。御利益もありそうです。
伊東:やはり道中が長いと、心の準備ができるのではないでしょうかね。すぐお寺の前に着いてしまうと、心の準備ができない気がするのですよね。
私が住職になった頃は、バスが来たら参拝の皆様が来て、バスがなくなると参拝者が来ないというそういう時代もありました。昔から不便な場所にありました。

階段数は以前と比べると2段増えて、108段になりました
代表取締役会長 旭野 一郎

代表取締役会長 旭野 一郎

伊東:これだけの坂道を皆様は、大みそかからお正月三が日は山の下から歩いて頂くわけですよ。お正月だけは、歩行者天国になって皆様山の下からお歩きになって上るという、昔ながらの修行をして頂くわけです。
旭野:私も昔からよく多氣山不動尊に来ているのですが、長い階段は、私の健康のバロメーターなのです。
伊東:石段も大谷石だったのですが、大谷石は穴が開いていて溝もあったので、どうしても弱かったのです。そうすると階段も上りづらかったので、これから高齢化社会になると手すりも必要になるのではないかと考えて、2年前に御影石で改修しました。
旭野:おかがさまで、手すりもあって私は階段を上りやすくなりました。
伊東:私もそうです。私も健康のバロメーターにしております。階段数は以前と比べると2段増えて、108段になりました。
旭野:そんなにあるのですか。
伊東:風邪をひいてしまった時や体調が悪い時は、途中で2,3度休むのが私の健康のバロメーターです。
旭野:車社会になって昔と今では、参拝者する人の層に変化はありますか?
伊東:大みそかの夜中は、若い方が多いように感じます。大みそかは車が入れないので、それを見越して4日以降に参拝される方も増えました。

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